sugao2004-11-21

タクシードライバーという映画があったが、アメリカも変わったような変わってないような・・
『仏教は宗教なのか?』と問う人が多い。というのも仏教が西洋的な宗教概念とはずいぶん異なるからだろう。そういう人たちは主に宗教というより哲学のようだと言う。実際宗教とは何かという問いに対する答えは宗教学者の数だけあるとも言われ、それがわかったからといって救われるものでもないので置いておこう。しかし仏教とは単なる心理分析ではなく、そこに救いがある点においてやはり宗教と考えるべきか。
ではその“仏教の救い”とはいかなるものだろうか?
一般的に『あの人は信心深い人だ』とか『信心しなさいよ』などといわれる“信心”という言葉だが、仏教でいう信心は一般的に考えるところの“人間の信じる心”ではないということを以前に書いた。
智慧の念仏うることは法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせばいかでか涅槃をさとらまし(親鸞聖人)
如来(ほとけさま)は智慧(ちえ)の信心(しんじん)を与え、生きとし生けるものを救われる。
仏教でいう“信心”とはそのまま真実を見る“智慧の眼”に他ならない。この“智慧の眼”は頭がいいとか悪いとか、教養があるとかないとかそういうこととは関係なくほとけ様から私たちに届けられている。智慧の眼は真実の己の姿を知らさしめ、それはそのまま如来を知らされることであり、言葉を変えていえばそれは“エゴ(本能的ともいえるような自己中心的ものの考え方)”が破られることである。
『信に死し、願に生きよ。(曽我量深)』 
智慧の信心を授かったその瞬間に救いは成立する。私の無明の闇は破られ、生まれ変わり立ち上がらされるのである。