sugao2004-11-25

日はまた昇るカルトーラ
笑顔で生きてゆきたいと願う 泣きながら青春を過ごした 嵐の終わり 日はまた昇る この悲しみの終わり まただれか愛する人を探さなくては・・
カルトーラのサンバが好きだ。2年前ネイ・マットグロッソカルトーラを歌った素晴らしいCDを出した。

sugao2004-11-23

サンパウロは落書きの宝庫です。
(直訳)“不適任は反抗を呼ぶ”
後ろに描かれているのは政治の中枢ブラジリア。『あいつらがろくな仕事せんから悪い輩が減らんのだ!!』とでも言いたいのでしょう。
さて先日の“仏教の救い”だがブラジルに来て以前以上にこだわりたい気持ちがある。このように教育レベルにも経済的にも歴然とした差別を目前にして、誰もがこのままで救われてゆく世界ということをまた違った意味で考えるようになった。

sugao2004-11-22

しまった。昨日の写真を僕の近況として高校時代の同級生の連絡メールで知らされていた。ご心配なく。髪切ったついでにちょっと遊んだだけ。凹んでもラリってもいません。−しかしちょっと風邪をひいた。面白い物で風邪を引くといつもは考えないようなことを考える。私たちの心は体調にも非常に影響を受けているということがわかる。
今はマナカという花が満開です。鉢物であるインパチェンスにそっくりだけどこの花は木に咲きます。

sugao2004-11-21

タクシードライバーという映画があったが、アメリカも変わったような変わってないような・・
『仏教は宗教なのか?』と問う人が多い。というのも仏教が西洋的な宗教概念とはずいぶん異なるからだろう。そういう人たちは主に宗教というより哲学のようだと言う。実際宗教とは何かという問いに対する答えは宗教学者の数だけあるとも言われ、それがわかったからといって救われるものでもないので置いておこう。しかし仏教とは単なる心理分析ではなく、そこに救いがある点においてやはり宗教と考えるべきか。
ではその“仏教の救い”とはいかなるものだろうか?
一般的に『あの人は信心深い人だ』とか『信心しなさいよ』などといわれる“信心”という言葉だが、仏教でいう信心は一般的に考えるところの“人間の信じる心”ではないということを以前に書いた。
智慧の念仏うることは法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせばいかでか涅槃をさとらまし(親鸞聖人)
如来(ほとけさま)は智慧(ちえ)の信心(しんじん)を与え、生きとし生けるものを救われる。
仏教でいう“信心”とはそのまま真実を見る“智慧の眼”に他ならない。この“智慧の眼”は頭がいいとか悪いとか、教養があるとかないとかそういうこととは関係なくほとけ様から私たちに届けられている。智慧の眼は真実の己の姿を知らさしめ、それはそのまま如来を知らされることであり、言葉を変えていえばそれは“エゴ(本能的ともいえるような自己中心的ものの考え方)”が破られることである。
『信に死し、願に生きよ。(曽我量深)』 
智慧の信心を授かったその瞬間に救いは成立する。私の無明の闇は破られ、生まれ変わり立ち上がらされるのである。