sugao2004-10-15

友人が“みほとけのご加護”について書いてくれていて考えさせられた。
仏さまの教えを聞かせてもらうなかでビックリ!!知らされたことのひとつ。
みほとけのご加護などというと抵抗を感ずる人もあるかもしれないから“私を目覚めさせようとしている大きな力”とでもいおうか。
結論からいえば「私が気がつこうが気がつくまいと、自己を越えた大きな力は働いている」ということなんだけど。
『逃げても逃げても救われる。救われるのに逃げている(桐渓順忍)』
なぜ気がつこうとつくまいとなどということが言えるのか?それは最終的には人間の心というものが全くあてにならないものだから。私が信じる信じないなどということは仏様の智慧の眼から見ると実に頼りのないもの。(ちなみにその大きな力に気がつくことは仏教では人間の信と区別して、大きいという字をつけ“大信”といいます)
「そういわれてもこんな難しい世の中、何かを信じずにはおれないよ」という声も聞こえてくる。でもおかしなことを信じてしまったらやっぱりおかしなことになってしまう。信じるその中身がまた問題である。
「だったら気がつこうとつくまいと同じこと?」これももったいない話。やっぱり気づいたほうが仕合せだと思う。生き方が変わる。
説教くさくなりました。
(写真)サントスの夜景